お寺さんの町は、天満の歴史の語りべ。
天満の地に寺町が形成されて約四百年。与力・同心と 共に大阪の北部の防衛を意識して配置された町づくりだという。また、寺院それぞれに開山の歴史があり、千年以上の寺歴を残す名刹もある。それはそれとして庶民の信仰や娯楽にも欠かせない関わりを持ち、天満に縁深い学者・文人墨客の墓も多い。
信仰も娯楽も宗派をこえて
「日がな一日、門前に人の絶えることがなかった。観音像を撫でながら無病息災を祈る人々のざわめきは寺の中まで響き、普段の静寂が嘘のようだった。若い僧が二人、門前に置いた餅箱に溜まった米を升で布袋に移し脇に抱える様にして庫裏に持ち入った。この米が翌月の大師の日までの食扶ちになる。お詣りの人々は懐の袋から米粒を手の平に少し取り出すと、布施として我先に餅箱に入れるのである。空になった餅箱にまた米が溜まりはじめた。」 御年配のご住職達が懐かしそうに往時の賑わいを語られるお大師さん詣りは宗派を超えた信仰と娯楽だったようだ。大塩焼けや大戦で歴史的な資料の大半を焼失したが寺は蘇った。寺町の名は地図から消えたが寺々は健在である。
成正寺
正善寺
日相上人開創。能勢候の菩提寺。候は郷里の能勢妙見から同体の本尊を観請し邸内に妙見堂を設けた。邸は夫婦池の埋立跡に構築された。夫婦池は上田秋成「雨月物語」の題材。
九品寺
伝、行基開創後、浄土宗に改宗。寺内に五井持軒の墓がある。大阪生まれの儒学者。伊藤仁斎・貝原益軒と親交があった。
専念寺
滴翠和尚創建。江戸期に3度焼失。秀忠23回忌に徳川家の御霊屋を建立。芭蕉研究の俳人、岸田素屋、語源研究の国学者、高橋残夢の墓所。
龍海寺
宝珠寺
天徳寺
「天下の台所」大坂の中心地は、天満だった。
江戸時代の大坂。それは、アメリカより240年も先駆けて始めた先物取引市場であり、全国の物産が7割も集まった資本主義経済都市でした。その中心となったのが天満や堂島。その繁栄の背景にあるのは地の利と人の和、堀や川を使った水運と町人の商人(あきんど)道でした。
自分で道を切り開く大坂だましい
大阪の人は権力に対してビビりません。「なんぼのもんや」「おれらが雇うてんねん」的な発想です。これは、全国的に見て大阪人だけの感覚です。こわいですね。 この反骨魂は、近世に生まれました。当時大阪の人口が最高で約40万人。それに比べて武士の数は500人をこえる程度。これでは、武士(役人)の姿を見たこともないし、上からガツンとやられたことがない、という人の方が多かったでしょう。「恐いもの知らず」の強さです。 役人が少ないから権力に頼らない。そこで町人から選ばれた惣年寄(そうどしより)が行政をまかされました。ちなみに町人とは、町に家を持って住んでいる人のこと。借家に住んでいる人は町人とはいいません。 このような反骨精神は、町を愛する心につながり、自分らの町は自分らでつくるという気概を生み、今に受け継がれています。
大川に育まれた天満青物市場
芭蕉も驚いた天満の活気
世界初めての高度な金融テクノロジーが誕生
大川から続く堂島沿いには蔵屋敷が多いときで135軒あり、天満にあったのが「鍋島藩蔵屋敷」。跡地が現在の大阪高等裁判所。東西135m、南北150mで一番の大きさ。米を積んだ川船が屋敷の中にそのまま入れる構造になっていました。 天満の商人たちは、大坂の庶民を相手に温もりある商いをしていましたが、北浜や堂島の商人たちは、藩(武士)を相手に商いをし、巨万の富を得ました。しかし、淀屋の場合、全国の大名たちに今の金で約1336億円の貸しがあり、結局踏み倒されています。しかし、大坂商人はしたたかです。堂島を拠点に商いを続けます。 幕府と何度も交渉を繰り返した結果、享保16年(1731)、公認の米市場を開設しました。堂島米市場の始まりです。ここで驚くのは、現物取引だけでなく、帳面上の売買や米切手による先物取引を世界で最も早く誕生させたことです。権力を恐れず、自由な発想を持った大坂人だからこそ出来たのでしょう。しかし、あまりに行きすぎたので、幕府は、たびたび禁止令を出しています。「たびたび」というのは、「やめろ」といわれてもやめなかったことを示しています。根性がありますね。特にかっこいいのは、儲けた金を橋や建物、あるいは文化、教育などに使ったことです。今でいう民活によるまちづくり、人づくりです。大阪ならではの伝統です。
おいしい天満の酒
江戸時代、大阪天満宮あたりには良質の水脈があり、その湧水を利用したおいしい「天満酒」が盛んに造られていました。造り酒屋が当時135軒もあったといわれ、樽屋町という地名にその名残があります。 天満・天神のまちは「天満の天神さん」と大川によって繁栄してきました。そしてそれを支え、守ってきたのは商人たちです。例えば、天神祭りのために講の人々が1年かけて貯金する。この気持ちも大阪に172橋も造った商人たちと同じ気持ちです。「まちや人のために役立ちたい」。それが、今も昔も大阪商人の心意気ではないでしょうか。
まちが人をつくり、ひとが時代をつくった。
江戸時代から大坂人は、二つの顔を持っていました。一つは商人の顔。もう一つは、文化人の顔です。学者、小説家、劇作家、台本作家、あるいは、塾などを支援する顔などです。そんな大坂人をご紹介。
井原西鶴 SAIKAKU IHARA
近松門左衛門 CHIKAMATSU MONZAEMON
山片蟠桃 BANTOH YAMAGATA
江戸時代の大坂には、すぐれた町人の学者がたくさんでました。その中で天満に縁が深いのが山片蟠桃(やまがたばんとう)。天神橋筋3丁目を東西に横切る寺町通りの善導寺にお墓があります。 故郷の播州から大坂へ出てきたのは、宝暦13年(1760)。堂島にある升屋に奉公。升屋は米の仲買商であり、金融業者でもありました。主人の山片重賢(しげたか)は、自分が通っていた懐徳堂(かいとくどう)で彼を学ばせました。山片蟠桃、この時13~14歳。すごいのは、この主人。蟠桃の秀才ぶりを見抜いていたのです。さすが大坂商人。人を見る目は確かです。 蟠桃が24歳で番頭になった頃、升屋は大名貸しが不良債権となり、倒産寸前になったのを立て直します。ずば抜けた経営の才覚があったのです。さらに升屋を発展させ、その功績を買われ、主人の名字をもらい九兵衛から山片蟠桃を名乗ります。 しかし、蟠桃を有名にしたのは学問の方でした。 55歳になった頃、今度は自分のために本を書きます。「夢ノ代(しろ)」全12巻。商売のかたわら書くのですから19年かかりました。 この話は、おじさんたちに元気をくれます。55歳からだって、何かを成し遂げることが出来るのです。何かを始めるとき「遅い」と決めつけないことにしたいもの。 夢ノ代は、哲学、思想、歴史、経済、天文、地理などものすごく広い分野に及んでおり、まさしく天才。しかも彼は、「ほんまにそうか」と自分の目で確かめる実証主義で合理主義。そのうえ古い考えにとらわれない自由さをもっていました。驚くのは、地動説を説き、地球外生物の存在を信じていたこと。おーい、山片蟠桃に会わせてくれ~ 大阪府は、国際的な文化賞「山片蟠桃賞」を設けています。 天満・天神に関わりのある人が受賞したら、蟠桃は、どういうやろか。聞いてみたいものです。